60年の歴史をたどる①

皆さん、こんばんは。今は夜です。

夜にブログ更新するのも珍しいのですが、私自身は入院して、すでに3回目の週末を迎えています。いよいよ来週には退院となるので、そのことを心待ちにしている反面、これだけ長く病室にいて、動いてもいないので、通常の生活に戻すにも時間はかかるだろうと心配もしています。

幸い、しばらくは週2回の通院を兼ねて職場に赴き、その機会を利用して仕事を片付け、皆に元気な姿を見せながら療養生活を継続できるので、焦る必要はないのですが。

それでもこの間は人生で初めての休職という選択をさせていただきました。

あまり迷惑をかけるわけにはいきませんが、復帰を急ぐことで、肝心の病気を再燃させてしまえばまたこの入院生活に逆戻りです。

私の今回の病気については、すでに確定診断がなされていますが、難病に指定されています。それこそ早い段階でヘルプを出したので、臓器障害は軽度で済んだものの、これを見過ごしていれば命にも影響した可能性すらあります。そういう意味では最大限の医療資源を投入していただき、確定診断してもらえたことも何かの運命だったのかもしれません。職場の皆さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

今できることは一日でも早く元気になり、またこの職場で貢献すること、そしてボート部のために自分のできることをすることですかね。それを目標に、今は「焦らずに」と自分に言い聞かせているところですので、ご心配をおかけしておりますが、今しばらくお待ちください。

さて、このブログですが、前述の通り、現場から少し離れている今、練習やレースについて何かを書くというより、今だからこそできることはないだろうかとずっと考えていました。

そんな中、青山学院大学ボート部が創部60周年を迎えること、そして11月には60周年の記念行事も予定されていることから、これを機会に、改めてこの部の歴史を自分自身も振り返ってみようと思いついたのです。

私自身も長くこの部に関わってきました。

それでも、自分が知っている歴史は60年の中のほんの一部です。

私が生まれる前の青学ボート部。

自分たちが直接知ることのない先輩たちが、どんな思いでボートに乗り、この部をつくり、そして次の世代へつないできたのか。50周年の際に残された記念誌を改めて読み返してみると、知らなかったことがたくさんありました。

今回から何回かに分けて、その歴史を少しずつ紹介してみたいと思います。

昔を懐かしむためだけではありません。

今、自分たちが当たり前のように活動している青山学院大学ボート部が、どのようにしてここまでつながってきたのか。

まずはそこを知ること、いえ、私自身が知り、それを伝えることから始めてみたいと思います。

きっかけは1964年、東京オリンピック

青学のボート部の原点は、1964年の東京オリンピックにありました。

当時18歳だった若林 久氏は東京五輪のボート競技に触れて感動し、青学入学後、一期上の青木 森二氏とともに、

「青学大にボート部を」

と奔走したと記録されています。

そして大学側の理解も得て、1966年10月、漕艇愛好会を設立。

これが現在の青山学院大学ボート部の始まりです。

発足時は、わずか2名でした。

最初は、たった二人の「青学にボート部をつくりたい」という思いから始まったのです。

「ボート部あれど ボートなし」

当時は、

艇もない。
艇庫もない。
オールもない。
技術的な指導者もいない。

当時の記事には、その状況を端的に表した言葉が残っています。

「ボート部あれど ボートなし」

文字通り、何もないところからのスタートでした。

早稲田や慶應のボート関係者から施設や艇を借り、漕ぎ方を教えてもらいながら活動していたそうです。そして最初のナックルフォアは、学生たちが大学生活の合間にアルバイトをして、そのお金で購入したと記されています。

今の私たちは戸田へ行けば艇があります。

オールもあります。

共同とはいえ、艇庫もあり、指導してくれる人もいる。

練習しようと思えばボートに乗ることができます。

もちろん今には今の苦労があります。それでも、こうして60年前の記録を読むと、自分たちが普段「当たり前」と思っている環境は、決して最初からそこにあったものではないことに気づかされます。

ボートに乗りたい。
でもボートがない。
それでも諦めず、自分たちでボートに乗れる環境からつくっていった。

改めて、そのエネルギーには驚かされます。

青学、初めてのレース

1967年には愛好会から漕艇同好会へ昇格します。

そして1968年10月13日。青学として初めてのレースに出場します。

当時の椎本 廣幸氏の練習日誌には、こう残されています。

「青学大生まれて初めてのレース。」

ナックルフォアで出場し、結果は3艇中2位。

その日の記録の最後には、

「やはり全員、もっと力をつける必要がある。」

とあります。

初めてレースに出る。
自分たちの力を知る。
負ける。
もっと強くなりたいと思う。

時代も環境も違います。でも、その部分は今も昔もそれほど変わらないのかもしれません。

わずか数年で全国へ

そこからの歩みはかなり早いものでした。

1969年には慶應大学端艇部からコーチを迎え、全日本選手権に初出場。

翌1970年には永井 久雄氏を監督に迎え、都立大学漕艇部からシェルフォア「朝霧」を購入しています。

そして1971年。全日本選手権の付きペアで初優勝。無フォアでも決勝2位。

何もないところから始まったクラブが、創部からわずか5年で全日本の頂点に立ちました。

そして1972年、ついに「体育会漕艇部」として承認、昇格します。

今では当たり前のように体育会ボート部を名乗っていますが、その「当たり前」を手に入れるまでにも6年がかかっています。

創部から最初の10年

改めて最初の約10年間を簡単に振り返ってみます。

1966年 漕艇愛好会設立。2名からスタート。
1967年 漕艇同好会に昇格。学生たちのアルバイトによって最初のナックルフォアを購入。
1968年 青学として初めてのレースに出場。
1969年 全日本選手権初出場。全日本ジュニア選手権にも初出場。
1970年 永井 久雄氏を監督に迎える。シェルフォア「朝霧」を購入。青山学院大学体育会優秀団体として表彰。
1971年 全日本選手権で付きペア初優勝。無フォア決勝2位。
1972年 体育会漕艇部として承認、昇格。
1974年 第1回インカレ出場。
1975年 新ナックル艇「AOYAMA号」を購入。

こうして並べてみると、改めてすごい10年間だったのだと思います。

二人しかいなかった。
艇さえなかった。

それが仲間を増やし、艇を手に入れ、指導者を迎え、全国大会へ出場し、全日本で優勝し、正式な体育会の部になっていく。そして最初の学生たちが卒業すると、今度はOBとして後輩を支える側になっていく。私たちが今いる場所の土台は、こうして少しずつつくられていったのでしょう。

60年前の「ボート精神」

そして記念誌の中で、今回私が特に引っかかった文章があります。

当時の部員が「ボート精神」について書いたものです。

そこには、

「第一が精神、つまりボート精神と言われるもの、第二が体力及び技術、そして第三が勝負」

とあります。

そして、

「ボート精神とは何かといえば、それは一言でいえば協調の精神ではないか」

と続きます。

体力にも差がある。
技術にも差がある。
漕歴も違う。
それぞれに個性がある。

その中で互いを信じ、励まし、全力を出し合い、一つの調和を生み出すところにボート精神がある。当時の学生は、そのように考えていたようです。

今なら「協調」という言葉そのものに、少し古さを感じる人もいるかもしれません。

私自身も、これを読んで、

「今の学生たちに同じ言葉を伝えたら、果たしてどのように受け取るのだろう」

と少し考えました。

ただ、一人では成立しないのがクルーボートであることは、60年前も今も変わりません。

それぞれ違う人間が一つの艇に乗り、一つのゴールを目指す。

その時に何が必要なのか。

その答えをどう表現するかは時代によって変わっても、問いそのものは今も残っているような気がしています。

「4年間をどう生きるか」

もう一つ印象に残った文章があります。

創部当時、なぜこの組織をつくったのかという話です。

そこには、

「机上のみの4年間で終始するのではなく」

という言葉がありました。

水の上でも4年間を過ごし、精神と肉体を鍛え、大学生活に悔いを残さない。そんな思いや願いを持つ仲間が集まって結成されたのだと書かれています。

これにも、私は考えさせられました。

当時の大学生と今の大学生では、大学生活そのものが違うはずです。

ボート部への入り口も、求めているものも、きっと違います。

今の学生にはボートだけではなく、勉強も、アルバイトも、友人との時間もあり、ほかにもたくさんの選択肢があります。

だから私は、60年前の価値観をそのまま今の学生たちに求めればいいとは思いません。

むしろ興味があるのは、

それだけ多くの選択肢がある今の時代に、なぜボートを選ぶのか。

ということです。

「4年間をボートに捧げるのか」という問いではなく、

「自分の4年間の中に、なぜボートがあるのか」

と考えてみる。

そう考えると、60年前の先輩たちの言葉も少し違って見える気がします。

当時の正解を探すためではなく

今回、最初の約10年を振り返ってみて強く感じたのは、先輩たちへの敬意です。

艇すらないところから、この部をつくってくれた。
結果を残してくれた。
体育会の部にしてくれた。
そして後輩へつないでくれた。

それがなければ、当然、今の私たちもいません。

だからまず、その歴史は今の部員たちにも知っておいてほしいと思います。

でも同時に、この歴史を振り返ることは、

「昔の先輩はこうだったのだから、今の学生もこうあるべきだ」

という答えを探すことではないとも思っています。

60年も経てば、当然時代は変わります。

学生も変わります。

スポーツとの向き合い方も変わります。

変わって当然なのだと思います。

では、

変わっていいものは何なのか。

そして、

変わってはいけないものは何なのか。

今のところ、私にもその答えが明確にあるわけではありません。

ただ、60年前の諸先輩方が考えた「協調の精神」や「4年間をどう生きるか」という言葉の中には、そのヒントがあるような気もしています。

今回紹介したのは、まだこの部の最初の約10年間です。この後にも、良い時代ばかりではなく、いろいろな時代があったはずです。どんな人たちがいて、何を考え、どのようにこの部を次へつないできたのか。

60周年を迎えるまで、もう少しこの歴史を辿ってみようと思います。

昔の青学ボート部を知るために。

そしてもしかしたら、

これからの青学ボート部を考えるために。

次回は、その続きから。

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