60年の歴史をたどる⑤再生

おかげさまで週2回の通院はありながらも、それ以外はゆっくりとした時間を過ごすことができています。

職場や部に申し訳なさはありながらもこれは自分自身に与えられた時間なのだと静かに受け入れ、次なる挑戦に向けて今は身体だけでなく、頭も心も整理をさせてもらっています。

来週末には全日本新人選手権が開催されます。当部からは2年生の髙橋が混成エイトで、また同じく2年生の菜名ちゃんがシングルスカルで挑みます。

二人ともインカレ後の国スポで経験を積み、いよいよ最初で最後の新人戦を迎えます。

先月から部内でも体調不良者が続いていたと聞いていますが、当日は万全の状態で出漕してくれたらと願っています。

私もこの大会には少し人前に顔を出せたらなと思っているところです。

さて、4回にわたり投稿してきた歴史シリーズもいよいよ終盤です。

シリーズ第5回「再生」。

続きをご覧ください。

灯を守り続けた人たち

前回は「転換」をテーマに、部員数の減少と私自身の学生時代について振り返りました。

最後は5年目のインカレで銅メダルを獲得し、競技生活に一区切りをつけるところまでお話ししました。

しかし、青学ボート部の歴史はそこで終わりませんでした。

むしろ本当の意味での試練は、その後に訪れることになります。

一人の後輩がつないだ灯

私が5年目を迎えた春。

一人の新入生が入学してきました。鈴木亮太です。

この年、新歓活動の結果、多くの新入生が入部してくれました。しかし最後まで競技を続けたのは亮太ただ一人でした。そして同期のマネージャー2名とともに、4年間、青学ボート部を支え続けてくれました。

私にとって亮太は単なる後輩ではありません。部を託した後継者でした。

引退試合の日、不運に見舞われ敗れた最後のレース。

一緒に涙を流したことを今でも覚えています。(いつかのブログにもその時のことを書き記していたので参考までに)

艇重量不足の記録と記憶
時が経つのは本当に早いもので、異動して早2ヶ月が経過しました。はじめはあんなに不安だらけだったのが今はなんてことなく毎日を過ごしています。もちろんまだ地に足が付いていない状態ですが、今を楽しみながら過ごしています。 卒業して以来、あま...

当時はまさか将来、一緒にボート部を再生させることになるとは思ってもいませんでした。

青学ボート部が止まった日

そして、その亮太もまた後輩たちへ思いを託し、卒業を迎えます。

しかし、その翌年に大きな出来事が起こります。

当時の監督と現役部員との対立でした。

詳細をここで語るつもりはありません。

ただ結果として、現役部員たちは全員退部という道を選びました。

そして部員はいなくなりました。

活動する学生がいない以上、ボート部は動きません。

青学ボート部は事実上の休眠状態に入ります。

創部以来続いてきた歴史が、私が知る限り初めて止まった瞬間でした。

離れてみて分かったこと

その頃の私は社会人になり、ボートから距離を置いていました。

もちろん気にはなっていました。ただ、卒業した自分が口を出すことでもない。そんな思いもありました。

だから静観していました。

しかし結果としてボート部は活動を止めました。

今振り返れば後悔もあります。もっと違う関わり方があったのではないか。もっと何かできたのではないか。そんな思いがないと言えば嘘になります。

そしてこの時、改めて思ったのです。

ボート部は艇や環境があるから存在するのではありません。

ましてや監督やOBがいて、長い歴史があるから存在するのでもありません。

部員がいるから存在する。

当たり前のようでいて、その当たり前の大切さを改めて考えさせられました。

一本の電話

休眠状態になって数年が経った2011年。

一本の電話がかかってきました。

あるOBの方からでした。

「一度会って話がしたい」待ち合わせ場所は赤羽でした。

そこで初めてお会いしたのが、当時のOB会長だった長島明さんでした。

話は単刀直入でした。

青学ボート部の監督を引き受けてほしい。

うすうすは気付いていました。だから驚きはあったものの、どこかで覚悟もしていました。

当時の青学ボート部には部員がいません。活動もしていません。資金もほとんど残っていません。ないもの尽くしの状態でした。

普通に考えれば断る理由はいくらでもありました。

それでも長島さんが私に会いに来た意味は理解できました。

ですから、あとは自分が覚悟を決めるだけでした。

もちろん、その場で返事はしませんでした。一度持ち帰り、考えることにしました。

最初に相談した相手

私が最初に相談した相手はやはり亮太でした。

苦しい時代を知る後輩です。

亮太は「須田さんがやるなら協力します」と快く賛同してくれました。その言葉に背中を押された部分は大きかったと思います。

青学ボート部への恩返し。

もしそんな機会があるのだとしたら今しかない。

そう思いました。

今振り返れば、亮太は単なる後輩ではありませんでした。

当時の思いを受け継いでくれた後継者であり、苦しい時代を知る同志のような存在だったのだと思います。

そして私は監督を引き受ける決断をしました。

消えていた7番艇庫

監督就任後、私は久しぶりに戸田へ向かいました。

そこで見た光景は想像以上のものでした。

かつて青学ボート部の拠点だった7番艇庫はなくなっていました。国立艇庫の改修によって配置は変わり、当時の面影はほとんど残っていませんでした。艇は最上段へ移され、保管場所もばらばらになっていました。

そもそも部員がいません。

活動拠点もありません。

どうやって練習するのか。

どうやって部員を集めるのか。

何一つ見えていませんでした。

正直なところ、不安しかありませんでした。

それでも、その現実を受け入れるしかありません。ゼロから始めると決めた以上、前へ進むしかなかったのです。

最初の一歩

最初の数年間は決して順調ではありませんでした。

長島さんをはじめ一部のOBの方々や亮太と一緒に新歓活動を行いましたが、OBしかいないボート部に興味を持つ学生はほとんどいませんでした。

そんな中、ようやくボートに興味をもってくれた学生もいました。

週末に戸田へ行き、一緒に艇に乗り、ボートを教えました。ですが、それも長くは続きませんでした。

それでも諦めるわけにはいきません。

翌年も勧誘を続けました。

そして2013年。ついに1年生が入部してくれます。

先輩がいないボート部。活動実績もほとんどないボート部。そんな状況にもかかわらず、仲間を連れてきてくれる学生がいました。

4人ほどの新入生が集まりました。

その中にいた一人が玉虫直樹でした。

今振り返ると、この出会いは青学ボート部にとって大きな転機だったように思います。

再生

部員ゼロ。

活動停止。

休眠状態。

そこから始まった青学ボート部は、正直なところ、この時点で再生できる確信などありませんでした。

ただ一つだけ思っていました。

このまま終わらせてはいけない。その思いだけです。

長島さんが声を掛けてくれた。

亮太が支えてくれた。

多くのOB・OGの皆さんが力を貸してくれた。

そしてようやく玉虫たち新入部員が入部してくれた。

この時点で、私はもう一人ではありませんでした。

振り返ってみると、不思議なものです。

5年目の現役時代。

最後の一年を続けようと決めた時もそうでした。

本気で何かに挑戦しようとするとき、この部には必ず同じ思いを持つ仲間が現れます。

それは現役部員かもしれません。

後輩かもしれません。

OBかもしれません。

でも、必ず誰かがいる。

それこそが青学ボート部に受け継がれてきたものなのかもしれません。

だから私は前に進むことができました。

その思いや期待に応えるために、自分はここにいるのだと言い聞かせながら、ここから無我夢中で走り続けることになります。

小さな一歩から

再生のスタートは戸田ではなく、鶴見川漕艇場でした。

当時の戸田は艇庫環境の問題もあり、初心者向けの艇もありませんでした。

そのため、まずは鶴見川で試乗会を行い、興味を持った学生に戸田へ来てもらうという形から始めました。

エルゴもありません。練習環境も十分ではありません。それでも水上に出ると、新入部員たちはボートの面白さを感じてくれました。

週末を中心に練習を重ね、秋には小さなレガッタにも出場してくれました。(部の復活を喜ばれてる長島さんや玉虫の当時の集合写真を今回の投稿のアイキャッチ画像にしています)

こうして玉虫たちの世代が核となり、翌年以降は学生たち自身が勧誘し、新しい仲間を連れてくる流れが生まれていきます。

玉虫の一つ下の世代には日原、伊藤(ジョン)、そして女子選手として入部し、その後はマネージャーとして4年間チームを支えてくれた西崎がいました。

この初代、そして二世代目の存在は本当に大きかったと思っています。

今でも彼ら、彼女らは思いを持って青学ボート部を気に掛けてくれています。

当時は本当にゼロからのスタートでした。

ですから最初は、「部員がいること」、「まずはレースに出ること」、それだけで十分だと思っていました。

ある意味ではサークルに近い感覚だったのかもしれません。実際、その方が入りやすかったでしょうし、興味を持ってくれる学生もいました。

しかし活動を続けていく中で、少しずつ見えてきたこともありました。

ただ人が集まるだけでは、組織は続かない。

目指す方向が違えば不和や軋轢も生まれます。仲が悪いわけではない。でも同じ方向を向いて進めない。

そんなことも起きるのだと知りました。

そして私は考えるようになりました。

青学ボート部として何を目指したいのか。どんなチームでありたいのか。

そのためには、練習頻度を上げること。合宿や泊まり込みを行うこと。規律を持って活動すること。そのための環境も必要なのではないか。

そんな私の投げかけや本音に理解を示してくれたのが玉虫でした。

そして玉虫は、「自分が引っ張ります」という覚悟で、その役割を引き受けてくれました。

今振り返ると、この出来事は私にとっても大きな転機だったように思います。

ボート部を再生させるのは監督ではありません。

学生自身です。

私は環境をつくることはできても、チームをつくるのは現役部員だからです。

そこから少しずつ部の方針が定まっていきました。

そして、そういう環境で頑張りたい。本気で挑戦したい。そう思う学生たちが集まり始めました。

振り返れば、この時に生まれた流れが、その後の50周年へ、そして60周年へとつながっていったのだと思います。

次回、最終回。

「未来」

50周年から60周年までの10年を振り返りながら、青学ボート部が目指す次の景色について書いてみたいと思います。


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