皆さん、おはようございます。
いよいよ退院の日の朝を迎えました。思わぬかたちで入院となって、早3週間が経過しました。これほどまでに自由だった時間は大学時代以来でしょうか笑
自由と言う言葉が相応しいかも疑問ですが、少なくとも仕事もボートもそれ以外のことも何かに追われることなく、ゆっくりと深呼吸しながら考える時間が持てたことは本当に偶然の産物です。
これまでの自分自身の在り方、そしてこれからどう在りたいのか。それが少しずつ鮮明に見えてきた3週間だったように思います。
もうしばらくは自宅に帰ってからの療養生活と通院を繰り返すことになりますが、それも今の自分に与えられた時間なのだと思い、今しかできないことを思う存分楽しみたいと思います。こんな前向きな病人もなかなかいないかもしれません。
でも元来、私はポジティブ思考です。
今年は監督に就任してもっとも悲しい出来事もあり、そのことがずっと尾を引いていたのかもしれません。でも、やはり前を向くしかなく、これからの未来を変えていくしかないというのが、今の私の結論なのです。
ちなみにこの60周年シリーズですが、現時点では計6回の投稿を予定しています。その6回目のテーマは『未来』ということは決めてあります。
もちろん今時点でどのような内容にするかはぼやっとしか見えていないのですが、未来に向けてどう進んでいくかというのが最大のテーマなのだと思っています。
ですので、しばらくは私自身が歴史を振り返りながら考えたことを綴る投稿が続きますが、もうしばらくお付き合いください。
さて、前回のブログでは、青山学院大学ボート部がどのようにして誕生したのか、その始まりの歴史を振り返りました。
1964年の東京オリンピックをきっかけに、「青学大にボート部を」という思いから始まった挑戦。何もないところから仲間を集め、他大学の力を借りながら艇を漕ぎ、自分たちの艇を手に入れ、やがて全日本の舞台で結果を残す。そして1972年、ついに体育会の部として認められるところまでたどり着きました。
ここまでの歴史を読んでいると、本当にすごいエネルギーだったのだと思います。
自分たちの大学に、まだ存在しない部をつくる。
今の私たちには、なかなか想像できないことです。
ただ、その先の歴史を読み進めていくと、もう一つ大切なことに気づきます。
部をつくることと、部を続けることは、同じではない、ということです。
今回は、その後の青学ボート部が、つくったものをどのように次の世代へつないでいったのかをたどってみたいと思います。
「つくる人」から「受け継ぐ人」へ
1972年に体育会の部となった青学ボート部。
もちろん、そこで歴史が完成したわけではありません。学生は4年間で卒業していきます。
創部当初、艇を手に入れるために奔走し、自分たちで練習環境をつくり、試合に挑んできた人たちも、いつかは大学を離れていくことになります。
その一方で、卒業した人たちが今度は違う立場から部に関わり始めます。
1975年には、飯盛 謙次氏がコーチとして迎えられています。
そして1976年には、初期の青学ボート部を監督として支えた永井 久雄氏が亡くなり、OBの林 和孝氏が新たな監督に就任しました。記録には、永井 久雄氏の漕法をそのまま受け継いでいったと残されています。
私は、この記録がとても印象に残りました。
それまで学生として部をつくり、活動していた人たちが、今度は卒業生として後輩たちを支える側になっていく。そして、人が代わっても、それまで培ってきたものを次の世代へ渡していく。
「継承」というものが、少しずつ形になっていったのだと思います。
続くことは、決して当たり前ではなかった。
しかし、歴史は順調なことばかりではありません。
記録によれば、同好会時代にはマネージャーを含め15~18名ほどまで増えた部員も、1972年に体育会の部となってからは次第に減少し、1976年には2、3名にまで落ち込んだとされています。
念願だった体育会の部になった。
全日本でも結果を残した。
それでも、人がいなければ部は続きません。
今、当たり前に存在している青山学院大学ボート部も、その歴史の中で、何度も「続けられるのか」という局面に立たされてきたことが、記録からも分かります。
それでも、当時そこにいた人たちは活動を続けます。
1976年には全日本選手権の舵手無ペアで3位。
翌1977年には中央大学からダブルスカルを購入し、その艇に乗った女子2名が関東女子選手権で準優勝、さらに全日本女子選手権で優勝しています。
人数が少なくなったからといって、歴史がそこで終わったわけではありませんでした。
その時にそこにいた人たちが、自分たちなりの形で活動を続け、次の世代へとつないでいったのだと思います。
再び仲間が集まる
1978年になると状況は変わります。
記録には、この年に部員が多く入部したこと、その後1980年代には4学年を合わせて男女13~19名程度で推移したことが残されています。
そして、この頃から「部をつくった人たち」の存在も少しずつ変わっていきます。
その象徴の一つが、青山緑水会なのかもしれません。
創部に奔走した若林 久さんは、今度は青山緑水会の初代会長として部を支える立場になり、1981年には第1回の緑水会総会が開催されています。
学生として部をつくった人が卒業し、今度はOBとして後輩たちを支える。
そして、その後輩たちも卒業すれば、また次の学生たちを支えていく。
そうして初めて、「部」というものは世代を超えて存在していくものになっていったのではないでしょうか。
2人から始まった部が、20年を迎える
そして1986年。
青学ボート部は創部20周年を迎えます。
11月には青学会館で記念パーティーが開催されたことが記録に残っています。
1966年、わずか2名で始まったボート部。
20年が経てば、創部した人たちはもちろん、その後を受け継いだ学生たちもすでに卒業しています。
それでも、青山学院大学ボート部は存在していました。
創部した人たちだけのものではなく、何世代もの人たちが関わり、それぞれの時代の学生が艇を漕ぎ、卒業生がそれを支える。
「創部」という一つの出来事が、少しずつ「歴史」や「伝統」と呼べるものへ変わっていった20年間だったのかもしれません。
受け継ぐとは、何を受け継ぐことなのか
ここまで歴史を振り返っていて、私は少し考えました。
「受け継ぐ」とは、いったい何を受け継ぐことなのだろう、と。
艇なのか。
技術なのか。
戦績なのか。
伝統なのか。
もちろん、どれも大切なのだと思います。
でも今の私には、それ以上に大切なものがあるように思えます。
それは、**この部を次の世代へつないでいこうとする「思い」**です。
私は今、この部の監督を務めています。
でも、私がいつまでも監督を続けるわけではありません。
では、いつ終わるのか。
それは、この部を受け継ぎたいという思いを持った人が現れたとき、それが私がバトンを渡すときなのだと思います。
私と同じことをする必要はありません。
私と同じようにできる必要もありません。
むしろ、その時代にはその時代のやり方があっていいと思っています。
大切なのは、
この部を残したい。
もっと良い部にしたい。
そして、また次の世代へつないでいきたい。
そんな思いを持てるかどうかです。
今年のインカレ後の打ち上げでも、現役の部員たちに「部への思いを持って活動してほしい」という話をしました。
今の学生たちにとっては、まだそれほどピンとくる言葉ではないのかもしれません。
自分たちは今、選手として目の前の練習やレースに向き合っているのですから、それでいいとも思っています。
でも、いつか分かる日が来るのではないでしょうか。
自分たちが当たり前のように活動しているこの部も、誰かから受け取ったものだということを。
そしていつか、自分たちもそれを誰かへ渡す側になるのだということを。
組織は、人が入れ替わっても、思いを渡していかなければ続かない。
60年という歴史は、きっとその繰り返しだったのだと思います。
誰かがつくり、誰かが受け取り、その人たちがまた次の誰かへ渡してきた。
その途中では、うまくいった時代もあれば、苦しい時代もあったでしょう。
それでも、バトンは途切れなかった。
だから今、私たちは青山学院大学ボート部として活動することができています。
そして今、そのバトンを持っているのは私たちです。
私自身も、いつかは誰かに渡します。
それがいつなのかは、まだ分かりません。
ただ、この部を自分よりも先へつないでいきたいという人が現れたなら、私はいつだってバトンを渡していいと思っています。
大切なのは、誰が監督であるかではありません。
この部を次へつないでいこうとする人がいることなのです。
60年の歴史を振り返りながら、今改めて、そんなことを考えています。


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