退院して数日が経ちました。
先月の長雨が嘘のように、10月に入ってからは気持ちのいい天気が続いています。
暑すぎず、寒すぎず。過ごしやすい陽気に包まれ、休んでいる身としては、どこかへ出かけたくて浮足立ってしまうような季節です。
退院した日も空は快晴で、むしろ少し汗ばむくらいの暖かさでした。
そして、約4週間ぶりに見る下界。
「下界」なんていうと大袈裟ですが(笑)、長く病院の中にいた私には、本当にそんな感じでした。
何気ない日常の風景。
見慣れた通勤経路。
行き交う人々。
少しずつ赤く色づき始めた樹木。
どれも入院する前まで当たり前のように目にしていたものなのに、不思議なもので、同じ景色が少し違って見えます。
普段は気にも留めていなかったような景色にありがたみを感じる。
そんな体験を、今まさにしています。
これはきっと日常だけではなく、久しぶりに戸田へ行き、ボートコースや部員たちの姿を目にしたときにも、同じように感じるのかもしれません。
そんなことに思いを馳せながら、今は焦らず、この療養生活の中で私自身にできることを進めています。
その一つが、この青学ボート部60年の歴史を振り返り、多くの方に伝えていくことなのだと思っています。
もっとも、ここで書いている歴史は、OBの酒井光一氏が苦労の末に作成された50周年記念誌を主な資料として、そこから読み取れることに、私自身が感じたことや考えたことを加えながら綴っているものです。
当然ながら、私がまだ生まれていなかった時代もあれば、青学ボート部とは何の縁もなかった時代もあります。
資料だけでは想像しきれないこともあるでしょうし、当時を知る方からすれば、「いやいや、実際はそうじゃなかったよ」ということもあるかもしれません。
そんなときは、ぜひ教えてください。
むしろ、そうやってこの物語の続きを、当時を知る皆さま一人ひとりから聞かせてもらえたらと思っています。
そして、その絶好の機会こそ、60周年記念パーティーなのだと思います。
OB・OGの皆さまはもちろん、この部に関わってくださった多くの方にご参加いただき、昔話も、今の話も、そしてこれからの話もできたら、こんなにうれしいことはありません。
皆さまにお会いできることを、心から楽しみにしています。
人が集まり、見える景色が変わった時代
さて、前回は「継承」をテーマに、創部した人たちから次の世代へ、青山学院大学ボート部がどのように受け継がれていったのかを振り返りました。
創部した人たちが卒業し、指導する人も代わり、部員がわずかになった時期もありました。
それでも活動を続ける人がいた。
そして、その人たちが次の世代へとバトンを渡していきました。
組織は、人が入れ替わっても、思いを渡していかなければ続かない。
前回、そんなことを書きました。今回は、その先の話です。
細々とでもつながれてきたバトンを受け取る人たちが、少しずつ増えていきます。
そして青学ボート部は、創部から20年、25年と時を重ねる中で、一つの「発展」の時代を迎えることになります。
人が集まり始めた
1970年代半ばには、一時2、3名にまで部員が減ったと記録されています。
しかし1978年には多くの新入部員が加わり、その後の1980年代は、4学年合わせて男女13~19名ほどで活動する時代が続きました。
そして1986年には創部20周年を迎えます。
2人から始まったボート部が、20年続いた。それだけでも、創部した先輩たちからすれば、きっと感慨深いことだったのではないでしょうか。
しかし、その先には、さらに大きな変化が待っていました。
1990年代に入ると、部員数はさらに増えていきます。
記録によれば、1992年春には37名。
エイトとフォアを、それぞれ2杯組むことができるほどの人数になっていたといいます。
そして1995年までは、30名の部員が在籍していたと記録されています。
37人。
今の青学ボート部を知る私からすると、正直なところ、なかなか想像できない光景です。
なぜ、これだけの人が集まったのか
では、なぜこの時代には、これほど多くの学生がボート部に集まったのでしょうか。
これは資料をいくら読んでも分からない。ということで、当時を知るOBの第一人者に直接問い合わせてみました。
その答えとして挙げてくれたのが、第二次ベビーブーム世代で、そもそもの学生数が多かったこと。
そして、大学のボート部が登場するテレビドラマ「愛という名のもとに」が放送されていたこと。
さらに、いわゆる昭和的なスポ根や文武両道といった価値観を肯定的に捉える雰囲気が、まだ残っていたことでした。
なるほど。きっと、このようないろいろな要因が重なっていたのでしょう。
そして、これはあくまで私自身の想像ですが、もう一つあるような気がしています。
人がいるところには、人が集まる。
そんな作用です。
多くの仲間がいて、活気がある。
いくつものクルーができて、水上にたくさんの艇が出る。
大勢の学生が、同じ場所で一つのスポーツに打ち込んでいる。
人が集まっていること自体が、その組織を魅力的に、そして華やかに見せることもあるのではないでしょうか。
そして、その光景に惹かれて、さらに新しい人が入ってくる。
人が人を呼び、そこでまた新しい活気が生まれる。
雪だるま式とでも言えばいいのでしょうか。
現在の大学スポーツを見ていても、部員数が多く活気のある組織には、そんな好循環が起きているように感じることがあります。
37人いれば、37人なりの難しさがある
もっとも、人数が多ければすべてがうまくいくわけではありません。
今の私からすれば、「37人も部員がいるなんて、うらやましいなぁ」と単純に思ってしまいます。
ところが、当時のことを聞いてみると、大所帯には大所帯なりの苦労があったそうです。
艇が足りない。
オールも足りない。
合宿所は大勢で生活するには狭く、衛生面の問題もあった。
そして当然ながら、これだけ多くの人間が集まれば、競技や部活動に対する熱量にも差が生まれてくる。
言われてみれば、当たり前のことなのかもしれません。
数人の組織には数人の組織の難しさがあり、30人を超える組織には30人を超える組織の難しさがある。
「人数が多いこと」と「良い組織であること」は、決してイコールではないのでしょう。
それでも。やっぱり私は、この時代を少しうらやましく思います。
先輩たちが、未来に託したもの
この60年の歴史を調べていて、とても印象に残った言葉があります。
1969年。
当時まだ「漕艇同好会」だった頃の体育会誌に、当時の主将である佐藤 順彦氏が文章を残しています。
そこには、部員数も、艇も、設備も、他大学とはまだ大きな差があるという当時の現実が綴られています。
そして、その文章の中にこんな一節があります。
「そして現在では無理なエイトを組むことを将来の後輩に託し」
この言葉を見つけたとき、私は思わず目が止まりました。
昭和44年、1969年です。
佐藤 順彦氏は、自分たちの時代ではエイトを組むことは難しいという現実を受け止めながら、その夢を「将来の後輩」に託していたのです。
そして、そこから20年以上の歳月が流れます。
1992年春。
青学ボート部には37人の部員が集まり、エイトとフォアをそれぞれ2杯組めるところまで大きくなっていました。
なんだか、すごくないですか。
20年以上前の先輩が未来の後輩に託したものを、その先輩とはきっと顔を合わせたこともない後輩たちが、本当に現実のものにしている。
こういうことを知ると、歴史を振り返ることが俄然面白くなってきます。
その時には叶わなかった夢でも、誰かに託し続けることで、ずっと先の未来で実現することがある。
「発展」という言葉には、ただ人数が増えること以上の意味があるのかもしれません。
私自身も、エイトを知ってしまった
実は私自身、現役時代を含め、シングルスカルやダブルスカルといった小艇に乗ることがほとんどでした。
そんな私が2025年秋、初めてエイトでレースに出場しました。
青学のOBを中心としたクルーで戸田スプリントに出場し、ありがたいことに優勝することができました。
初めてエイトを漕いで感じたのは、小艇とはまったく違う感覚でした。後ろから、ぐんと押されるように艇が進んでいく感覚。これまで味わったことのないスピード感と重厚感。そして、漕いでいるうちに自然とクルーの息が合い、一体になっていく感覚。
「これがエイトか」
と、ただただ驚きました。
あの日のことは、以前このブログでも「こんな幸せなことあります?」という記事に書きました。そこでも、初めてエイトを漕いだ際のスピード感や重厚感、クルーの一体感について振り返っています。

そして困ったことに、人間というものは一度知ってしまうと欲が出てきます(笑)。
青学のエイトが見たい。
そんなことを、以前にも増して考えるようになりました。
エイトとの縁は、今も続いている
現在の青学ボート部だけでエイトを組むことは、簡単ではありません。
それでも、エイトとの縁が完全に途切れているわけではありません。
ここ数年、全日本新人選手権では中央大学さんとの混成クルーで、青学の学生がエイトを経験する機会をいただいています。
3年前には淡路が初めて混成エイトに加わり、3位でメダルを獲得しました。
その流れの中で、昨年は白川が混成エイトで優勝。
そして今年も、その機会をいただき新人戦に挑みます。
今の青学だけでは、なかなか経験させてあげることのできない艇です。
だからこそ、こうした機会をいただけることは、本当にありがたいことだと思っています。
そしてエイトを経験した学生たちが、クルーボートの面白さや、大勢で一つの艇を動かす魅力を感じてくれたとしたら、それもうれしいことです。
いつか、もう一度
誤解のないように言えば、私は「エイトで勝つこと」を青学ボート部の目標にしたいわけではありません。
シングルにはシングルの魅力があります。
ダブルにはダブルの面白さがあります。
少人数だからこそ、できることだってあるでしょう。
それでも、いつかまた、青学だけでエイトを組めたら。
しかも、それがものすごく特別な出来事ではなく、
「今年はエイトも出そうか」
そんな会話が学生たちの間から自然に出てくるくらいのチームになったら。
私は、そんな景色を見てみたいのです。
エイトで勝つためではありません。
エイトも選べる。
フォアも選べる。
ダブルもシングルもある。
学生たちが「これをやってみたい」と思ったとき、その挑戦を可能にできるだけの仲間がいて、選択肢がある。
そんな組織になれたらいい。
監督として。
そして、一人のOBとして。
それはもしかすると、かつて37人もの部員がいた時代の「再来」なのかもしれません。もちろん、まったく同じものを再現する必要はありません。時代も違えば、学生の価値観だって違います。
私たちは私たちなりの形で、新しい発展の姿をつくればいい。
そう思っています。
発展とは何だろう
今回、かつて大所帯だった時代を振り返りながら、改めて「発展」という言葉について考えました。
人が増えること。
強くなること。
艇や設備が充実すること。
もちろん、それも発展でしょう。
でも私は、
発展とは、ただ組織が大きくなることではなく、仲間が増え、できることが増え、次の景色が見えるようになることなのかもしれない。
そんなふうに思っています。
2人から始まった部に仲間が増え、いつしか37人になった。
佐藤 順彦氏が「将来の後輩」に託したエイトも、20年以上の時を経て現実のものになった。
その意味では、この時代の青学ボート部は間違いなく、大きく前へ進んでいたのだと思います。
一方で、歴史はここで終わりません。
37人まで増えた部員数は、その後、減少へと向かいます。
記録では1998年に9名、2000年には6名。そして2008年からの5年間は1~2名となり、記念誌では「休眠状態」と表現されています。
当時を知るOBに振り返ってもらうと、ある世代では勝負に力を注ぎ、一定の結果を残した一方で、その次の年代の強化や育成まで十分に手が回らなかったのかもしれない、と話してくれました。
もちろん、後から一つの理由だけで説明できるほど、組織の盛衰は単純ではありません。いくつもの事情が、複雑に重なっていたのでしょう。
ただ、この話を聞いて、私は前回の「継承」で考えたことをもう一度思い出しました。
人が少なく、苦しいときだけ、次の世代を考えればいいわけではない。
むしろ、人が集まり、うまくいっているときにこそ、その先へ何を残すのかを考える必要があるのかもしれません。
人が集まること。
強くなること。
そして、それを次の世代へ渡すこと。
そのすべてを続けることは、きっと簡単ではありません。
青学ボート部も、この後、再び大きな転機を迎えることになります。
発展の先に待っていたものは何だったのか。
そして、歴史のバトンはどのようにつながれていったのか。
それはまた、次回振り返ってみたいと思います。


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