艇重量不足の記録と記憶

時が経つのは本当に早いもので、異動して早2ヶ月が経過しました。はじめはあんなに不安だらけだったのが今はなんてことなく毎日を過ごしています。もちろんまだ地に足が付いていない状態ですが、今を楽しみながら過ごしています。

卒業して以来、あまり大きく環境が変わることなくいたのはきっと戸田という環境が常にそこにあったからだと思います。それがこうして電車で移動をすることになり、その途中に音楽を聴いていたり、スマホで検索していたりするとふと当時のことを懐かしく思い出すことがあります。

今日は親友の一人、鈴木亮太との思い出を語ってみます。

少し前のブログで最後の戦士と書きましたが、彼と出会ったのは僕が大学で5回目を迎える春のことでした。当時は自らが部を存続させるために、そして何よりここにきた証を残すために一人で活動を続けていました。そこにはもう一人の親友の存在もありましたが、たった二人で新入生勧誘を迎え、これまでと180度変えた勧誘方法で、見事に10数名が入部してくれたわけですが、そのうちの一人が亮太でした。

初めは少し変わった印象をもっており、妙にボートや自分に興味を示すので気味の悪さすら感じていましたが(亮太、ごめん)、それだけ熱いものを持っていたのも後になって分かったことでした。僕が引退するインカレまでの間は一緒に汗を流し、彼らが居なければ到底最後の結果は成し得なかった、そう思えるくらい厳しい練習にも付き合ってくれました。

たった半年ほどの共に過ごしたボート部での活動でしたが、蓋を開けてみるとせっかく入部してくれた部員も厳しい練習に耐えきれずほとんどが辞めてしまい、それでもボート部の灯を絶やさないと僕らの意志を継いで一人で頑張ってくれていました。ただ、僕が競技をその後も続けることになったこともあり、結局はそこからまた一緒にジムに通ったり共に過ごす時間を重ねていき、環境は違えど、同志として共に汗を流し多くのことを語り合ってもきました。

先日、戸田に来た時に過去の記録で「艇の重量不足」があるので、そんな汚名を皆で晴らしてくれと訳のわからないことを言っていましたが、改めて検索してみると確かにそういう記録がいまだに残っていました。ボートの記録とは我々が学生だったときのものまで表示されるので、これは有難いものだと改めて思います。特にシングルスカルは名前が記載されるので当人の記憶だけでなく、良くも悪くもこうして記録に残るのは有難いものですが、そんな記録を遡っていくと亮太が4年の夏の悲運を思い出します。

インカレで準決勝に進出することはこれまでの部の目標にもありましたが、当時もそうでした。亮太の4年時、最後の夏は1つ下の後輩とダブルスカルで挑み、実力的には目標達成の希望は持っていました。実際に予選を終え、例の如くタイムで並べられる組み合わせ方式では、1つしかない準決勝への切符をつかみ取れる位置にもつけていました。これは順当にいけば、と思ったものの、当時、学生天下であった某大学がまさかの予選での「艇重量不足」で最下位扱いとなり、あろうことか敗者復活ではまさかの同組に位置付けられてしまったのです。

結果、某大学はこの種目で準優勝を飾ります。つまり、敗者復活から順当にいけば準決勝進出を決められるはずの亮太のダブルスカルは悲運なことにこれを最後にボートの競技生活を終えてしまったのです。実はこの時、既に僕は競技生活を終えていて、ボートとも少し疎遠になっていましたが、このインカレだけは仕事のお昼の合間を縫って、コースに応援に行ってレースを見届けました。そして亮太の4年間の努力と悲運に見舞われ報われなかった悔しさを知って、船台で二人で抱き合って涙したのも鮮明に覚えています。

そんなこともあって正直、彼が「艇の重量不足」を口にしたときはてっきりこの事だと思っていたのですが、まったく違うところで不名誉な記録を残していたことを検索してみて知り、そういうことか、と一人吹き出してしまいました。

なんでこんなことを今更触れるのか、見ている方にとっては不思議に感じるかもしれません。それでもボート部はいつだってこうした小さなドラマを経て、卒業した後もかけがえのない存在として続いていきます。当時、東京という大都会に憧れて上京し、華やかな大学生活を夢見ている時期もありましたが、現実はそんなことはありませんでした。それでもボート部があったからこそ、今があり、かけがえのない仲間に出会い、今の自分を形成することができました。

実は先ほどの話しの続きに、亮太とダブルスカルを組んだ1つ下の相棒はそのまた1つ下の後輩と翌年のインカレで準決勝進出を果たします。これって小さな世界の中かもしれませんが、これもまた一つのドラマなのです。そしてそんな彼らはこの後、志半ばでボート部を去ることになるのですが、そこから当部は部員がいない暗黒期としての数年を過ごしていくわけです。

そんな状況でありながら、私が監督を引き受けたのは、当時学生の頃の思いと同じくボート部の灯を絶やさないということはもちろん、なによりこのボート部を起点として数々の出会いとドラマが生まれていくことに期待しているからです。これは継続するからこそ成り立っていくものです。もちろんここには書ききれないほどの数々の思い出や、多くの諸先輩方の思いがこのボート部にはあり、皆の胸の中に今でも生きている事でしょう。

毎日練習に汗を流し、淡々と過ごしていく中ではあまり感じられないことばかりかもしれませんが、仲間がいて、共に過ごしていく中で、一つ一つの出来事が思い出となっていくものです。本気で取り組むからこそ、そこには必ず意志も存在します。日々の活動では忘れがちなこうした出来事に思いを馳せながら、自分の原点を振り返ってみた今日という1日でした。

今は3人での活動です。でもきっと近いうちにまた仲間が加わり、多くの出来事がそれぞれの胸に刻まれていくことでしょう。そして、自らにとってかけがえのない場所となるよう自分達の手で作り上げ、より多くの仲間を迎え入れながら、歴史も伝統も作り上げていってほしいと思います。贈る言葉のようになりましたが、私も当分は辞めるつもりはありません。私が退くときは、こうした思いを継いで、任せられる後輩が育ったときでしょうか。そんな日が来ることも待ち侘びながら、時が経つのをゆっくり噛み締めてもいたいものです。

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